1990年代初頭ドイツにおける庇護権法改正:その背景、「庇護に関する妥協」の内容と影響
はじめに:1990年代初頭の状況と庇護申請者急増
1990年のドイツ統一は、ドイツ社会に大きな変革をもたらしました。同時に、冷戦終結と東欧諸国の体制転換は、国際的な人口移動の増加、特にドイツへの庇護申請者数の急増という現象を引き起こしました。1990年代初頭にかけて、ドイツはヨーロッパ内で最も多くの庇護申請者を受け入れる国の一つとなり、その数は年間数十万人に達しました。この急増は、受け入れ体制の逼迫、社会的な緊張、そして庇護制度そのものへの疑問を投げかけることとなりました。
当時のドイツ基本法第16条は、「政治的に迫害されている者は庇護権を有する」と定めており、庇護権は個人の基本権として非常に強く保障されていました。しかし、急増する申請への対応、いわゆる「経済難民」や「不正申請」への懸念、そして受け入れ自治体の負担増大といった問題が顕在化し、庇護制度の見直しを求める声が高まりました。これに対し、難民支援団体や教会などは基本権である庇護権の維持を強く主張し、社会全体で大きな議論が巻き起こりました。
このような状況下で、当時の連立政権(キリスト教民主・社会同盟/自由民主党)と野党(社会民主党)の間で、基本法改正を含む庇護制度改革に向けた交渉が重ねられました。これが、後に「庇護に関する妥協」(Asylkompromiss)と呼ばれる歴史的な合意形成へと繋がります。
「庇護に関する妥協」(Asylkompromiss)の成立経緯と主な内容
「庇護に関する妥協」は、激しい政治的・社会的な議論を経て、1992年12月に連邦議会で、1993年5月に連邦参議院で可決され、1993年7月1日に施行された基本法第16条(現行第16a条)の改正を中核とする一連の法改正です。この妥協は、与野党がそれぞれ譲歩し、広範な合意に基づいて成立しました。
改正の主な内容は以下の通りです。
- 基本法第16a条の導入(旧第16条の改正):
- 庇護申請者が、ドイツに到着する前に、人道的保護を保障している安全な第三国を経由してきた場合、原則として庇護申請は却下されることとなりました。この規定は、地理的にドイツが非EU加盟国と直接国境を接していない現状において、多くの申請者に適用される可能性を持つものでした。
- 政治的迫害の概念が、「国家による措置」に限定されることが明確化されました。これにより、内戦や非国家主体による迫害からの避難者は、基本法上の庇護権の対象外とされる可能性が生じました(ただし、後述の他の法律による保護の可能性は残されています)。
- 「安全な第三国」規定の具体化:
- 連邦議会の同意を得て、特定の国々を「安全な第三国」として政令で指定できるようになりました。申請者がこれらの国を経由してきた場合、その国に送還される手続きが簡素化されました。
- 「安全な本国」規定の導入:
- 特定の国を「安全な本国」として指定し、その国籍を持つ申請者の場合、迫害の証拠がない限り、申請は「明白に不当」として迅速に処理される仕組みが導入されました。
- 空港手続き(Flugblattverfahren)の強化:
- 特定の国からの申請者が航空機で到着した場合、空港内で迅速な審査を行い、結果が出るまで入国させない手続きが導入されました。
これらの改正は、庇護申請の要件を厳格化し、手続きを迅速化・効率化することを目的としていました。特に「安全な第三国」規定は、陸路でドイツに到着するほとんどの申請者に影響を与える可能性があり、庇護制度の根幹に関わる変更点でした。
改正の背景と政治力学
「庇護に関する妥協」成立の背景には、単なる申請者数の増加だけでなく、東西統一後の社会不安、経済的な不確実性、そして外国人に対する排他的な感情の高まりがありました。1990年代初頭には、ロッストック=リヒテンハーゲン(1992年)やメラーン(1992年)、ゾーリンゲン(1993年)などで外国人居住施設や難民に対する襲撃事件が頻発し、社会的な分断が深まっていました。
このような状況下で、連立政権は治安維持と国民の不安解消を訴え、庇護制度の厳格化を強く推進しました。一方、社会民主党は当初基本法改正に反対の姿勢を示していましたが、社会的な圧力、特に州レベルでの受け入れ負担増大を背景に、改正への同意へと傾いていきました。最終的には、基本権の制限という点で批判を受けつつも、社会的な安定を取り戻すための「やむを得ない選択」として、あるいはより広範な社会政策の一部として、この妥協が成立しました。
改正の影響と歴史的評価
「庇護に関する妥協」による基本法および関連法の改正は、その後のドイツの難民政策に多大な影響を与えました。
- 申請者数の減少: 改正法施行後、ドイツへの庇護申請者数は劇的に減少しました。これは、手続きの厳格化と「安全な第三国」規定の効果が大きいと考えられています。
- 庇護制度の性格の変化: 基本法上の庇護権(第16a条)の適用範囲が限定されたことで、多くの庇護申請者は外国人法(Ausländergesetz、後の居住法 Aufenthaltsgesetz)に基づく保護(追放猶予 Duldung、補助的保護 Subsidärer Schutzなど)を求めることになりました。これにより、ドイツの難民保護システムは、基本権としての庇護から、より国際法(ジュネーブ難民条約)やEU法に基づいた保護へと重心を移していく契機となりました。
- 社会・政治への影響: 改正は、極右勢力の活動に対する抑止力としては限定的であった一方、難民問題に関する社会的な議論のあり方や、外国人統合政策の方向性にも影響を与えました。また、基本権としての庇護権が制限されたことについては、人権団体や法学界から現在に至るまで批判が寄せられています。
- EUレベルでの影響: ドイツの庇護制度改革は、その後のEU共通庇護制度(CEAS: Common European Asylum System)の構築に関する議論にも影響を与えたと言われています。
「庇護に関する妥協」は、ドイツの難民政策史における重要な転換点です。社会的な圧力と政治的な妥協の産物として成立したこの改革は、庇護制度のあり方、国際的な責任分担、そして社会統合といった現代的な課題に繋がる多くの論点を提起しました。この時期の政策決定プロセスやその後の影響を詳細に検証することは、現代の難民・移民政策を理解する上で不可欠な視点を提供してくれます。
結論:歴史的視点から見た「庇護に関する妥協」
1990年代初頭の「庇護に関する妥協」は、東西統一後のドイツが直面した未曽有の庇護申請者増加という危機的な状況下で、政治が到達した一つの帰結でした。基本権である庇護権の制限を含むこの改革は、その成立過程から内容、そして影響に至るまで、今日でも多くの議論を呼んでいます。
この時期の出来事は、難民政策が単なる法的な問題ではなく、国内外の政治情勢、経済状況、社会構造、そして人々の意識といった多様な要因が複雑に絡み合う、極めて複合的な課題であることを示しています。歴史的な視点からこの「妥協」を分析することは、ドイツがどのように難民・移民問題に対応してきたのか、その中でどのような価値観や原則がせめぎ合ってきたのかを理解する上で、示唆に富むものと言えるでしょう。今後の研究においては、当時の議事録、政府の公式見解、メディア報道、学術論文、そして当事者である難民自身の経験に関する資料などを多角的に参照し、より深くこの時期の歴史を掘り下げていくことが求められます。